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窓辺の蕪村

更新日:2024年12月14日

「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」


 上記の「窓辺の蕪村(像)」の軸物は、上段が蕪村の書簡で、その書簡の下に、月渓(呉春)が「窓辺の宗匠頭巾の人物」を描いて、それを合作の軸物仕立てにしたものである。  

 この下段の月渓(呉春)の画の左下に、「なかばやぶれたれども夜半翁消そこ(消息=せうそこ)うたがひなし。むかしがほなるひとを写して真蹟の証とする 月渓 印 印 」と、月渓(呉春)の証文が記されている。


 上段の蕪村の書簡(天明元年か二年十月十三日、無宛名)は、次のとおりである。


   早速相達申度候(さっそくあひたっしまうしたくさうらふ)

 昨十二日は、湖柳会主にて洛東ばせを(芭蕉)菴にてはいかい(俳諧)有之候。扨

 もばせを庵山中の事故(ゆゑ)、百年も経(ふ)りたるごとく寂(さ)びまさり、殊勝な

 る事に候。どふ(う)ぞ御上京、御らん(覧)可被成(なさるべく)候。

  其日(そのひ)の句

 窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉

  探題

  初雪 納豆汁 びわ(は)の花

 雪やけさ(今朝)小野の里人腰かけよ

  納豆、びは(枇杷)はわすれ(忘れ)候

 明日は真如堂丹楓(紅葉したカエデ)、佳棠、金篁など同携いたし候。又いかなる催(も

 よほし)二(に)や、無覚束(おぼつかなく)候。金篁只今にて平九が一旦那と相見え

 候。平九も甚(はなはだ)よろこび申(まうす)事に候。平九も毎々貴子をなつかしが

 り申候。いとま(暇)もあらば、ちよと立帰りニ(に)御安否御尋(たづね)申度(ま

 うしたく)候。しほらしき男にて。かしく かしく かしく


 この蕪村書簡に出てくる「湖柳・佳棠・金篁・平九」は蕪村門あるいは蕪村と親しい俳人達である。また、この書簡の冒頭の「昨十二日は」の「十二日」は、芭蕉の命日の、「十月(陰暦)十二日」を指しており、この芭蕉の命日は、「芭蕉忌・時雨忌・翁忌・桃青忌」と呼ばれ、俳諧興行では神聖なる初冬の季題(季語)となっている。


 この書簡は、蕪村の「窓の人のむかしがほなる時雨哉」を発句として、「はいかい(俳諧)有之候」と歌仙が巻かれたのであろう。この発句の「むかしがほ(昔顔)」は、当然のことながら、俳聖芭蕉その人の面影を宿しているということになる。


 世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨 二条院讃岐 『新古今・冬』

 世にふるもさらに時雨のやどり哉           宗祇     連歌発句

 世にふるもさらに宗祇のやどり哉           芭蕉    『虚栗』


 この芭蕉の句は、天和三年(一六八三)、三十九歳の時のものである。この芭蕉の句には、宗祇の句の「時雨」が抜け落ちている。この談林俳諧の技法の「抜け」が、この句の俳諧化である。その換骨奪胎の知的操作の中に、新古今以来の「時雨の宿りの無常観」を詠出している。


 旅人と我が名呼ばれん初時雨   芭蕉 『笈の小文』


 貞享四年(一六八七)、芭蕉、四十四歳の句である。「笈の小文」の出立吟。時雨に濡れるとは詩的伝統の洗礼を受けることであり、そして、それは漂泊の詩人の系譜に自らを繋ぎとめる所作以外の何ものでもない。


 初時雨猿も小蓑を欲しげなり   芭蕉 『猿蓑』


 元禄二年(一六八九)、芭蕉、四十六歳の句。「蕉風の古今集」と称せられる、俳諧七部集の第五集『猿蓑』の巻頭の句である。この句を筆頭に、その『猿蓑』巻一の「冬」は十三句の蕉門の面々の句が続く。まさに、「猿蓑は新風の始め、時雨はこの集の眉目(美目)」なのである(『去来抄』)。


 芭蕉の「時雨」の発句は、生涯に十八句と決して多いものでないが、その殆どが芭蕉のエポック的な句であり、それが故に、「時雨忌」は「芭蕉忌」の別称の位置を占めることになる。


 楠の根を静(しづか)にぬらすしぐれ哉     蕪村 (明和五年・『蕪村句集』)

 時雨(しぐる)るや蓑買(かふ)人のまことより 蕪村 (明和七年・『蕪村句集』)

 時雨(しぐる)るや我も古人の夜に似たる    蕪村 (安永二年・『蕪村句集』)

 老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな   蕪村 (安永三年・大魯宛て書簡)

 半江(はんこう)の斜日片雲の時雨哉      蕪村 (天明二年・青似宛て書簡)


 蕪村の「時雨」の句は、六十七句が『蕪村全集一 発句』に収載されている。そして、それらの句の多くは、芭蕉の句に由来するものと解して差し支えなかろう。

 蕪村は、典型的な芭蕉崇拝者であり、安永三年(一七七四)八月に執筆した『芭蕉翁付合集』(序)で、「三日翁(芭蕉)の句を唱(とな)へざれば、口むばら(茨)を生ずべし」と、そのひたむきな芭蕉崇拝の念を記している。

 この蕪村の芭蕉崇拝の念は、安永五年(一七七六)、蕪村、六十一歳の時に、洛東金福寺内に芭蕉庵の再興という形で結実して来る。

 この冒頭の「「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)ですると、上段の『蕪村の書簡』の「窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉」の「昔顔」は芭蕉の面影なのだが、下段の月渓(呉春)が描く「窓の人」は、芭蕉を偲んでいる蕪村その人なのである。

 そして、その「芭蕉を偲んでいる蕪村」は窓辺にあって、外を眺めている。その眺めているのは、「時雨」なのである。この「時雨」を、芭蕉の無季の句の「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」の「抜け」(省略する・書かない・描かない)としているところに、「芭蕉→蕪村→月渓(呉春)」の、「漂泊の詩人」の系譜に連なる詩的伝統が息づいているのである。


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